• ケルブ神父が亡くなるまでには、修道会員は250名から300名ほどとなり、そのうちの50名ほどはカナダで活動していました。ケルブ神父は聖職者ではない一般人のカテキストも会員に含めることを提案していましたが、当初は実現には至りませんでした。それでもケルブ神父は「世俗カテキスト」という構想がいつかは実るという希望を捨てませんでした。

    フランスではケルブ神父が亡くなった後(1859年)から1880年にかけて一貫した急速な発展期が続きました。しかし国が政治的な混乱期に入ってからは横ばいの状況となり、それは15年にわたりました。それまで修道会は公立学校を指導することができましたが、それができなくなり、次は教区学校を設立することとなりました。教区学校は無償教育であり、経営は苦しいものでした。また聖職者への軍役も課せられるようになり、修道院は縮小する一方でした。1900年、760人の修道会員のうち約500名がフランス人でした。

    カナダにおける状況は数のうえでは劣っていましたが、確実に根付いていき、設立から半世紀後の1897年には215名の聖職者を数えるまでになりました。

    1865年、三名のカナダ人会員が米国イリノイ州のバーボネスに学校を設立し、修道院も生まれました。1882年には米国の会員たちによってシカゴ管区が作られ、20世紀を迎えるまでに約40名の聖職者を擁するまでになりました。


  • 20世紀初めまで、修道会はフランス人聖職者が多数を占める状況が続きました。シカゴ管区を除く地域の活動は共通の枠組みに基づくもので、修道会の一番の目的である初等教育では寄宿学校を含むいくつかの学校を持っていました。また中等教育を施す学校もありましたが、そこにおける聖職者の数は限られたものでした。さらに社会事業としてフランスにおける孤児院やモントリオールにおける聾唖者施設がありました。いくつかの教区では聖具の管理を任されていました。各地の共同体は小規模もしくは中規模なものが大半を占めていました。

    1903年5月、フランス政府は様々な修道会によって運営されている11000におよぶ学校および病院の閉鎖を決定しました。それから二か月足らずのうちに、ヴィアトール会が運営する修道院や老後施設などが閉鎖され、会員もばらばらになってしまいました。そして初等学校および中等学校も混乱を迎えました。修道会財産はすべて国家に吸収され、戻ってくることはありませんでした。一部の聖職者たちは裁判にかけられ、牢獄へ送られました。そのほかの聖職者たちは主に年配者を中心としてほかの国々へと旅立ちました。

    ヴール地方の聖職者にとってベルギーが主な亡命先となったほか、ロデーズ地方の聖職者はスペインに亡命する場合は多かったようです。


  • カナダ管区はフランスの仲間たちを受け入れる意向を表明したため、31名がカナダへと渡りました。以上の三つの地に分かれた聖職者たちは少しずつつながりを回復しようと努めました。当時、教育機関はすべて無料化され、いわいる「ライシテ(政教分離)」の人々によって担われていました。また「企業体」によっていくつかの便宜が提供されました(庭、農園、法衣、聖具など)。ベルギーのブリュッセルやスペインのヴィクトリアでは新しい学校が作られました。しかしそのような進展の矢先、第一次世界大戦が勃発し、再び将来に暗雲が立ち込めたのです。フランス人聖職者の約半分が招集され、29名が戦死しました。彼らは若者たちであり、文字通り修道会は破壊されてしまったのです。

    1920年代から1960年代にかけて、カナダ人聖職者の数は増え続け、ついには修道会員の三分の二を占めるまでになりました(1960年の時点で1760人中1146名)。この結果、評判の高い中等教育施設(ジョリエット、リゴーなど)をいくつか設立することができたほか、盲聾者らのための特別な施設(モントリオール、ケベックシティ)も設けました。東にあってはセントローレンス川の河口、北にあってはアビティビ・テミスカマング地域、西にあってはマニトバなどへと拡大していったほか、1931年には満州に学校を建設するために聖職者たちが旅立っていきました。

    シカゴ管区での発展はすこし異なっており、大学などの教育機関における高度専門人やチャプレン、司教などを生み出していました。コロンビア州ボゴタには1961年に学校が設立されました。いちばんの困難に直面していたフランスでも少しずつ回復の兆しがみられ、1955年にはコートジボワールのブアケに学校を設立しました。



  • スペインにおいては当初、基盤づくりがゆっくりと進みましたが、1920年代からは確実な成長を遂げました。スペイン内戦(1936年‐1939年)による困難にもかかわらず、1937年には准管区、その十年後には管区に昇格しました。1957年以降、スペイン管区はチリにもいくつかの施設を作っています。

    第二ヴァチカン公会議によってヨハネ23世が望んだ新しい息吹が吹き込まれ、教会における宗教生活は改善されることとなりました。一方で公会議は60年代後半に蔓延していた問題に新たな目を向けることともなったのです。制度やコミュニティの崩壊は、聖ヴィアトール会にとっても自らの存在意義を問い直す機会となりました。

    それにも関わらず、1969年および1972年から始まった総則の見直し、1978年の会憲の改正などによって、聖ヴィアトール会の使命と宗教生活の必須要素は緩慢ながらも確実に回復されていきました。

    そのような改革のなかで、世俗の一般会員たちのことに自然と注目が集まりました。会憲のなかでは「我々の創設者が大切にした考えに沿って、修道会の使命、霊的生活、共同体生活に参加したい人々を受け入れる。」と述べられています。ルイ・ケルブ神父が作った土台が150年経った今、その考えを実現することを可能にしたのです。



  • 一般信者は男性も女性も会憲に示された使命を共有し、その精神を受け継ぎ、各国の特性に応じた形で相当程度まで修道会の生活に参加することとなったのです。

    今日の聖ヴィアトール修道会の使命は「イエス・キリストと福音をのべ伝え、信仰が生かされ、深められ、記念される共同体を育てること。」と会憲に定められています。

    ケルブ神父は「キリスト教教義の教育と聖なる祭壇への奉仕」を目的としました。当時は特に青少年を対象としており、世俗との緊密な協力がなされました。


    現在は1984年の総則に定められているように、ケルブ神父の遺志を忠実に受け継ぎ、すべての人々への奉仕のなかでも特に助けを必要としている青少年を中心に据え、そのためには学校の内外、新旧の教会組織、形だけのクリスチャン施設などといった場所を問わないという姿勢をとっています。

    21世紀の幕開けとともに、ベイリーズ、ブルキナファソ、ホンジュラス、ボリビアといった国々で新たな活動が始まりました。ヴィアトール修道会は現在、479名の聖職者および289名の一般信者会員を抱えています。管区は16か国に及んでいます。