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聖ヴィアトールはフランスのリヨンにある教会で読師を務めた人物で、ユスト司教の忠実な弟子でもありました。生まれはおそらくリヨンで、4世紀にローマ人もしくはガリア人との混血家庭に生まれたと考えられています。若くして学習を終えたのちは、読師となるために聖堂付属の学校に入り、聖典や教父たちの研究、さらには朗読の仕方の修得などに励んだとされています。

当時、読師の職は信仰生活を不断に深めていくことを求められる終身的な地位とされており、人々の前で朗読するだけでなく、若者たちにキリスト教の教義を教えることもその役割のひとつでした。

聖ヴィアトールと彼の司教、聖ユストの人生は密接に結びついています。343年頃、ユストはリヨンの司教に選ばれ、同時代の人々によって深い学識を持った慈しみ深い人物であると評されています。
司教として30年間を過ごしたのち、聖ユストはエジプトの砂漠で俗世と交わりを絶った修道僧として残りの人生を送ることを決意します。そして聖ヴィアトールもこの師の決断に従っていくこととなるのです。ちょうどその時期、リヨンでは悲惨な出来事が起きました。


ある男が町の中心部で剣を振り回し、多くの市民が犠牲となったのです。犯人は聖堂に逃げ込み、庇護を求めました。犯人を追う群衆は聖堂に殺到し、その仲裁役をユスト司教が申し出たのです。ユスト司教は殺気立つ群衆たちを前に、犯人を公正な裁判にかけることを条件に引き渡しを承諾しました。しかし犯人が教会を出るや否や、群衆は護衛の手から犯人を奪い取り、その場で殺してしまったのです。ユスト司教は自らの努力が足りなかったのだと自分を責めるようになり、司教を務める資格はもはやないとして辞職を決意し、自分の罪をあがなうために残りの人生を過ごさなくてはならないと考えました。

381年頃、ユスト司教はアレクサンドリアに向かう船に乗るため、リヨンを秘密裏に出発しマルセイユへ向かいました。ヴィアトールはそれを知るや否や、師である司教についていくことを決め、マルセイユで追いついたあと、ともにエジプト行の船に乗り込んだのです。

エジプトに着いたのち、アレクサンドリアから南へ40マイルもしくは50マイルほど離れたスケティスという砂漠地帯に住む修道僧らの集団に加わりました。この修道院は一貫した禁欲主義を追求することで知られており、修道僧たちは地面に掘られた穴や岩で作った空間に生活し、お互いの生活場所は見えないようになっていました。集まるのは典礼が行わる土曜日と日曜日だけで、普段は手作業で生計を立て、貧しい食事を口にするだけでした。断食や祈り、沈黙、徹夜の祈りなどが、修道僧の生活でした。


ユスト司教と読師であるヴィアトールはエジプトで自分たちの身元を明かさなかったようです。しかし数年後、偶然リヨンからやってきた巡礼者たちが彼らに気づき、帰国を求めました。その時、二人は帰国の求めには応じませんでした。巡礼者たちはリヨンの教会にこのことを報告し、教会は二人を説得して帰国させるためアンティオクスという人物を派遣します。アンティオクスはその後、リヨンの司教になる人物です。しかしこの試みもうまくはいきませんでした。

ユスト司教はアンティオクスの訪問があってからほどなく、おそらく390年頃に亡くなったとされています。ヴィアトールも後を追うようにして亡くなりました。ユスト司教の死はその高齢によるものと考えられていますが、ヴィアトールの死はおそらく、悲しみによる衰弱と定期的に砂漠の修道院を襲っていた疫病によるものであると考えられています。

二人の死がリヨンに伝えられた時、聖人たちの遺体をリヨンへと持ち帰る準備が進められました。当時、修道僧として死ぬことは殉教の一つの形とみなされていたため、遺体も殉教者のものと同様に名誉あるものだったのです。ユストとヴィアトールの遺体はおそらく399年までにはリヨンに到着したと考えられています。



言い伝えられているところによれば、遺体は8月4日に到着し、9月2日にはマカベア教会に安置されました。この教会はのちに聖ユスト教会と呼ばれるようになります。ユストとヴィアトールという二人の聖人に対する信仰は広まっていき、5世紀にはそのための祭日が四日定められました。

遺体のリヨン到着を記念する8月4日、マカベア教会への安置を記念する9月2日、二人がエジプトに出発した日である10月14日、そして聖ヴィアトールを記念する10月21日。

聖ヴィアトール記念日は今日まで続いています。中世に入ってますます信仰は高まり、13世紀には豪華な装飾がなされた聖遺物匣に改めて遺体が安置されました。しかし近代に入ってから二つの革命が大きな傷跡を残すこととなります。

宗教改革の時代、カルヴァン派が1562年にリヨンを襲撃し、教会を破壊してしまいます。フランス革命期の1793年には群衆が教会を荒らすという事件が起きました。1830年、ルイ・ケルブ神父は聖ヴィアトールを守護聖人としてカテキストの団体を創設します。


1793年に生まれたルイ・ケルブはサン・ニジエで司祭となりましたが、その教会はかつてユスト司教や読師である聖ヴィアトールが奉職した聖使徒教会の跡地に建てられたものでした。

サン・ニジエの聖職者養成学校で勉強したのち、若きケルブは神学校に入りました。その後、地元の教区で助祭となり、学校でも教え始めました。1822年、ヴールの聖ボンヌ教会の主任司祭に任命されています。

そこでケルブ神父は聖ヴィアトール教育会を立ち上げ、1838年には修道会として教皇の承認を得ることができました。